棟方志功椿館 ─素朴だけれど 奥深く─



椿館棟方志功画伯との出会い

 棟方志功画伯との出会い

昭和16年(1941年)浅虫在中のレモンの画家小館 善四郎氏の紹介で画伯が38才の時から交際が始まりました。

画伯は東京の荻窪に居を構えておりましたので毎年家族でおいでになり、1~2か月逗留におりましたが、昭和20~26年迄は富山県南砺市福光町に疎開しておりまして、その後お亡くなりになる前年71才迄おいでになっておりました。

画伯は油絵は遊びで書とか倭画(絵画の事を倭画と言っておりました)は楽しみで自分の仕事は板画という考えもっておりました。当館には静養に来ておりまし たので仕事の板画の道具はもってこなかったのですが、制作意欲が湧くものですから色んな作品を制作し、おいていってくれました。ですから当館にある作品はほとんどが直筆画です。

画伯の全集を出す時お話がありましたが、親父が亡くなってごたごたしていたため全集にのっていない作品ばかりとなっております。





 「板散華」 (昭和17年刊)

私のいる椿の湯宿に立派な庭がある。盛岡の庭師を引き具して、今の若い主人の蝦名氏の祖父が、精魂いれて造り上げたものだと聞いた。現在も先代の未亡人が一本一本の草を育て、そのように要らぬ雑草を摘んでいるのだ。
ここの湯名になったという大椿が離れて二株ある。一株は先年の冬、暴風雪に枝を取られて形をこわしたのは残念だが、布石の至妙はこの庭に名をなさしているのだ。

明治天子様の御野立ちの場所は清浄され、柵されて、洩れる床しさを、外から拝して朝夕を、勿体なく、畏し普く、合掌している。

この由緒の庭にいろいろの鳥が来て囀る。鶯も夏には来るというし、私は鳥の名は知らぬが、スッピッチョン、スッピッチョンと鳴く毎朝同じ時刻障子のそばに来る鳥と馴染んで仕舞った。丁度夏で、蝉が時雨のように昼中騒いでいるし、夜はまた虫の音がとりどりだ。今も鳴いている。

私はこの椿宿が好きだ。今の椿主人は若く、明るい人だ。椎茸の栽培に腐心しているというので、そのことは談義にはいつも顔が輝く。家前の一と山、所謂馬場山づたいの自分持ちの山には、椎茸林がどこまでもつづいている。それからもう一つこの由緒の湯宿に勝れた厚板一枚の看板がある。実に立派な字だ。書き手は不明なそうだが、厳かな内に開きを見せた正しい楷書で、実際みごとに椿旅館と三字、謹厳に書いている。

残念なことには後墨がはいっているので、ちょっと弱くなってるのが惜しい。初めてひと月もいる麻蒸を書くのに、書くことは尽きない。善知鳥前、津軽高野山なぞ書く名所もまだあるし、椿・柳・高砂それぞれ名湯の持っている伝説など、筆を伸ばせば際限ない。

——浅虫の地名はね昔は麻蒸で通じていたものだったと聞く。わたくしはやはり昔名をこの題に用いてこの随筆に『麻蒸』を使うた—–

「板散華」(昭和17年刊)~




棟方志功エピソード

 世界的板画家 棟方志功画伯の遊び心


棟志功
「棟志功」は、江戸時代の南画家が中国流に三字の名前を使ったことに倣ったもので、そのため、板画ではなく倭画で、また襖絵や屏風の作品で使われているようです。
30代に多く使用されていました。
50代の作品では「棟氏志功」が使われていることもあります。

柵(さく)
棟方の版画作品、題名に「…の柵」としてよく使われている。柵とは打たれた杭の繋がったもので、志功の「柵」は繋がる意味を含めて「札(さつ)」にも通じ、四国八十八箇所の巡礼の納札のごとく、一札一札を納めていく、一本一本杭を打って柵をつくっていく、という気持ちがこめられている。

法眼棟方志功真かい(毎の下に水)ほうげんしんかい
法眼は法印に次ぐ僧位、法眼の下は法橋位である。昭和36年、嵯峨法輪寺より法橋位、37年に富山日石寺より法眼位を受けた。同年法輪寺より法眼位を再び受けている。「真かい(毎の下に水)」は志功の法名。かい(毎の下に水)は海の同字で、高野山蔵空海筆の国宝、般若心経に「空かい(毎の下に水)」の署名が見られる。

法眼(ほうげん)
法眼和尚位の略。法印に次ぐ僧位。中世以降僧に準じて医師・絵師・仏師・連歌師などに与えられた称号。
※法印-法眼-法橋

志昂(しこう)
志功と同音。昭和49年7月7日、「棟方」という重い字画の文字と「志功」という文字のつり合いを考慮して、「功」の字を「昴」(日の昇るさま)に改名することを公表した。この字は「昴」(すばる、プレアデス星団のことで満天でもって美しい星とされる)ではないが、志功は従来の折松葉のサインに代って、星形のサインを使っている。
しかし半年後の12月12日「ツイウカウカと親のつけてくれた名を棄てたのは愚かなこと」として本名に戻した。
志功志昂と署名したのはこの間のみではなく、それ以前にも落款を記す時の配置の都合上、「昂」の字を用いたこともあった。
昭和47年の書「風」「水」などはその一例である。

折松葉と野菊サイン
板画のサインに使われる。折松葉は名人鍛冶でもあった父幸吉の刃物の切銘で、野菊は、 人知れず道端にそっと咲く野菊のように、強く潔らかにありたいという想いをこめている。 1973年以降のサインには前出の星形のものも見られる。

∞と10÷3
最晩年のサイン。いずれも限りない余韻を残すことに通じるのか、無限大と割っても割っても割り切れない。



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